Web Magazine hamatra

スタジアムを熱く、楽しくする横浜F・マリノスサポーターのためのウェブマガジン「Web Magazine hamatra」(ウェブマガジン ハマトラ)  Presented by NPO法人ハマトラ・横浜フットボールネットワーク

Google Translate: 

hamatra My First Game 013:Take-1(1993年5月19日vsガンバ大阪)

f:id:yfm-8ch:20170526080219j:plain

マリノスが好きになったキッカケは何ですか?
今の観戦や応援スタイルに行き付いたキッカケは何ですか?

あの試合があったから今がある。
あの試合があったからここにいる。

そんな思い出に残っている試合を語ってもらう My First Game

今回は、Take-1さんによる1993年5月に行われたvsガンバ大阪の試合です。

今回は「Take-1」さん(自己紹介)

Take-1(@take1_zama)です。ローマ字読みです。
スタジアムのどこで何をしているかは、以下の駄文を一読願います。


My First Game

1993年5月19日(水)
Jリーグサントリーシリーズ 第2節
横浜マリノス1-0ガンバ大阪
@横浜市三ツ沢総合公園球技場
得点者:112’ビスコンティ(横浜)

Jリーグ公式記録


Jリーグ開幕

「日本リーグ時代からの日産ファン」とはいうものの、高校卒業後はプレーからも観戦からも遠ざかっていて、Jリーグ開幕前年のナビスコカップの盛り上がりもテレビで見て「ほう」と思うだけ。語り草になったグループリーグ最終戦のまさかの敗退も、翌日の新聞で知って唖然としたほどでした。
ただ、そんな中でもやはり元日の天皇杯は特別で、6度目の優勝を決めたブラウン管越しの神野のダイビングヘッドで心に火がつき、開幕を心待ちするようになりました。

とはいえ、当時はプラチナ化した開幕戦チケットを入手する術もなく、「せめて」と買ったのが、その4日後に行われるホーム開幕戦。今思うとのんびりしたもので、特に並んだりしたわけでもなく、仕事帰りに新宿サブナードのCNプレイガイドでメインスタンドの席(S席?)を買いました。もっともその後はJリーグバブルでこんな買い方はできなくなりましたが。


平日観戦への思い

試合は水曜日。トリコロールのネクタイを締め、代々木にあった職場から三ツ沢に向かいます。過密日程で毎週のように水曜開催が続いた当時は、比較的チケットが買いやすいのと、「映画や芝居を観に行くように、仕事帰りに普通にサッカーを観に行く文化を作るんだ」という変な使命感から、主に平日の試合に行っていました。

f:id:yfm-8ch:20171225215607p:plain

スタジアムでのことは、実はほとんど憶えていません。公式球「エトルスコ・ユニコ」を蹴る音が、かつて自ら蹴っていた硬い皮のボールと違い驚いたこと。後ろの席の人たちが「浪速のイタリアン」本並を指して「ガンバのキーパー、外人じゃん」と言っていたこと。簡単に勝てると思っていたのに一向にゴールが決まらずジリジリしたこと。コーナーキックを蹴る前に祈るようにボールを額に押しつける木村和司の仕草。それに、延長後半にビスコンティのVゴールが決まり飛び上がったら、周囲で立っているのは私だけで拍子抜けしたこと。
印象に残っているのは、その程度です。高揚した気分よりも「勝ってホッとした」というのは、今と変わりませんね。


初めてのサポ活

2007年8月11日(土)
Jリーグディビジョン1 第19節
横浜F・マリノス 8-1 横浜FC
@日産スタジアム
得点者:30'大島秀夫(横浜) 44'坂田大輔(横浜) 51'山瀬功治(横浜) 62'山瀬幸宏(横浜) 65'大島秀夫(横浜) 72'大島秀夫(横浜) 74'山瀬功治(横浜) 82'平本一樹(FC) 88'大島秀夫(横浜)

Jリーグ公式記録


合併騒動の衝撃

チケット発売日になると西友町田店のチケットセゾンに並んで、買えた分だけ観戦に行く、という生活が続きましたが、会社を辞め、麻生区から座間に引っ越し、時間が不規則な仕事を始めると、自然と観戦機会は減り、でもマリノスとの繋がりとしてファンクラブ(当時は「マリノスクラブ」といいました)は続けていたところ、ある日、連絡先として登録していた事務所に不思議なファックスが届きました。
マリノスとフリュー ゲルスが合併することになった。マリノスが存続チームとなる。という話で、あまり要領を得ない内容でしたが、正直に言えば、チームが残るということに安心して、余り意味を考えもしませんでした。

当時、私にとってマスコミ以外の主な情報源は、パソコン通信「ニフティサーブ」のサッカーフォーラム。マリノス部屋の流れからフリューゲルスの会議室を覗いていると、徐々にこれは他人事ではないと思うようになり、再建基金に出資。さらに市民(サポーター)による経営という、マリノスとは別のアプローチのクラブという試みに賛同してソシオ・フリエスタにも加わりました(当時、同様のマリサポは結構いました)。


ハマトラの原点「最後のダービー」

f:id:yfm-8ch:20171225220206j:plain

その後、内部対立と離脱を繰り返し、今や見る影もありませんが、合併騒動を通して現実のこととして意識した「クラブを支える」というサポーターとしての文字通りの役割は、2007年、奇しくも彼のクラブとの「最初のダービー」敗戦から「最後のダービー」に至るポスター貼りを始めとしたクラブ・サポーター一体の動員活動で具現化し、今日のハマトラにも繋がっています。


初めてのグループ遠征

2004年5月15日(土)
Jリーグディビジョン1 1stステージ第10節
ジュビロ磐田 1-2 横浜F・マリノス
@静岡スタジアム エコパ
得点者:14'奥大介(横浜) 16'藤田俊哉(磐田) 64'那須大亮(横浜)

Jリーグ公式記録


ジャンマリで繋がる

f:id:yfm-8ch:20171227055514j:plain

過去からほぼ一貫して一人参戦・一人観戦(応援)の私ですが、それでもスタジアムに行けば交わる人がいる、という意味で繋がりを持つきっかけになったのがジャンボマリノス君(商品名は「ビッグマリノス君」)、通称「ジャンマリ」です。

先行していた「ジャングラ」「ジャンパル」に触発され(当時の半同居人が清水サポでジャンパル使いだったこともあり)、ニフティのマリノス部屋の何人かで商品化を願い騒いでいた2001年の暮れに発売。当時のオフィシャルショップ「トリコポイント」で、(今日ヨメーニョさんがつれて来られている「2代目」と違って)一見凶悪そうな面構えにビビりながら、バラツキのある仕上がりの中から比較的おとなしそうで嘴が短めの1体を選び、「Take-2(たけにぃ)」と命名。

翌年の開幕戦から参戦を始めウェブサイトも開設すると、観戦場所がバラバラの同好の士が試合前には徐々に集うようになり「JMA(ジャンボマリノス君協会)」を自称。名古屋・清水・新潟との対戦時には、合同で集会をしたりもしました。
また、この頃は、スタジアムや行き帰りに知らない人(主に女性)から声をかけられることもありました。生涯で一番モテた頃でした。


うなぎ屋でゴロ寝

f:id:yfm-8ch:20171227055550j:plain

そんな中で迎えた2004年、ステージ3連覇への天王山と見られたアウェイ磐田戦に、主なメンバー男女5人でクルマ遠征することになりました。夜通し休憩しながら走り、明け方エコパに到着。ジャンジュビばかりかジャンパルや「おやすみスワンちゃん」まで登場した集会に続いて、試合は1点差ながらも内容で圧倒する勝利。

試合後は、大阪から参戦の2人も合流して掛川へ。偶然みつけた掛川城近くのウナギ屋さんに入ると、通された畳敷きの2階は貸し切り状態。疲れからゴロゴロしていると、まるで修学旅行のような雰囲気もあって、このまま泊まっていくと錯覚するほどの心地よさでした。


初めてのガムテゲーフラ

2005年12月3日(土)
Jリーグディビジョン1 第34節
大宮アルディージャ 1-1 横浜F・マリノス
@埼玉スタジアム2002
得点者:33'トゥット(大宮) 72'上野良治(横浜)

Jリーグ公式記録


天皇杯に向けシンプルに

f:id:yfm-8ch:20171225221000j:plain

ジャンマリの集会は中心メンバーの生活環境の変化などもあり2005年で一段落しましたが、その頃気になっていたのが、いわゆるネタゲーフラ。当時柏のゴール裏を席巻していたゲーフラ群は他サポの注目の的でしたし、横浜でも「森本童貞」のガムテゲーフラがネット上でブレイクするなど、個性を競っていました。

機会があればやってみようと思っていましたが、最初はシンプルなものがいいだろうと「元旦国立」という4文字を貼って、リーグ最終戦からその後の天皇杯4試合で掲げ続けることにしました。


抜擢の選手に焦点

f:id:yfm-8ch:20171227055732j:plain

とはいえ、リーグ戦で天皇杯ネタだけというのもどうかと思い裏面に採用したのが、この試合で先発が予想されていた熊林親吾。この年に湘南から移籍加入し、出番は少ないながらも広い視野とパスセンス、それに献身的な運動量、さらには独特のキャラと印象的な活躍で(一部では)人気を博した“クマー”でしたので、加入直後のキャンプで体脂肪記録を樹立したと報じられたことを下敷きにしつつ、ピッチ上での神出鬼没ぶりを讃えました。

この日は埼スタでの大宮戦ということで、いつもは入ることのない北サイドのゴール裏でのゲーフラデビュー。特に人目を引くこともなく、試合もロースコアのドローに終わり、「心機一転、天皇杯だ」と思ったものの、1週間後の5回戦は仕事のため欠場。当時毎年のように試合が組まれていた長崎での、この年再昇格したばかりの川崎との対戦は、延長の末あえなく敗退し、「元旦国立」の出番はありませんでした。


ホームでもゴール裏に

f:id:yfm-8ch:20171227055747j:plain

そして翌シー ズン。ゲーフラは続けるつもりでいましたが、当時のホームゲームの観戦場所はバックスタンド最上段。その位置でゲーフラが見えるかどうかということ以上に、あまりにもふざけたようなネタゲーフラを掲げるだけで応援は手拍子程度というのはいかがなものかという後ろめたさもあり、開幕の京都戦からゴール裏最奥に移動。
周囲におとなしい方が多い中、不惑を目前に(跳んだりはしませんが)90分フル稼働を始め、ちょうど十二支が一回りしました。


思わぬ繋がりの連鎖から

細々と続けているゲーフラですが、その年の秋、回文ネタが本連載第1回ろこさんの目に留まったり、ちょっとしたトラブルの際に当事者のことを知っていたことから、対応に当たっていたろこさんに呼ばれたり、その席で仕切り役の方と繋がったことからNPO法人ハマトラの設立に際して監事を仰せつかったりと、その後は想像もしていなかった展開がありました。

そんなこんなで色々変化もあり、何かと「マリノスのために」などと説教臭いスタンスを取ることも増えましたが、改めて実感するのは、普段の暮らしぶりなど知らない、下手をすれば名前も知らない多くの人たちに自分自身が支えられ生かされているんだなということです。相変わらずの独り参戦・独り応援ですが、決して悪いもんじゃないですよ。


次回の「My First Game」

というわけで、次回は、タックさんです。お楽しみに。



text:Take-1(@take1_zama
edit:はち(@hachhing

© NPO 法人ハマトラ・横浜フットボールネットワーク